伊达政宗歌集

完结动漫时间:2024-04-28 03:45:38点击:432

庆長六年正月新年前后

ቤተመጻሕፍቲባይዱ

「あらたまの年に常葉の色染まず今日の子の日の松のみどりは」

「故郷の一重の花もひらくなる思いこそやれ九重の春」

庆长八年八月在镰仓游览时

「月を見ばおなじ空ぞと思い出よ東の方にこころとめずも」

庆长十三年在从江户回国的途中

「散るとても御法をうくる花の舟浮かびていたる汀なるらし」

同年中秋歌会时

「昨日まで降りにし雨も心してくまなき月に今宵会うかな」

「あらたなる光を月に添えんとや今日よりさきの雨は降りけん」

元和五年元旦家臣前来道贺时

「年のあけて春はまだきの折りながら花と降り敷く庭の淡雪」

不散花風「遠く見し花の梢もにおうなり枝に知られぬ風や吹くらん」

滝上歌「吉野山滝津ながれに花散れば井堰にかかる波ぞ立ちそう」

神前歌「昔誰がふかき心のねざしにてこの神垣の花を植えけん」

花祝「君がため吉野の山の槙の葉のときわに花の色や添わまし」

马上少年过,世平白发多。

残躯天所赦,不乐是如何

辞世句

「曇りなき心の月をさきだてて浮世の闇をはれてこそゆけ」

「旅行信馬人家を過ぐ

往々問いきたる道うたたはるか

春雨衣を湿し日まさに暮るる

このとき開くや否や故郷の花」

「初春の雨は旅寝もつらからじうえにし木々の花を思えば」

庆长十九年中秋赏月的时候

「ひととせに今宵ばかりの月の空たぐいまれなる影を見るかな」

「七種を一葉によせてつむ根芹」

文禄二年原田宗时死时所写的悼文

な「夏衣着つつ馴れにし身なれども別るる秋のほどぞ物憂き」

む「虫の音は涙もよおす夕まぐれ淋しき床の起き伏しも憂し」

あ「哀れげに思うに連れず世のならい馴れにし友の別れもぞする」

元和七年顷

醉余标语「馬上少年過ぐ

世平らかにして白髪多し

残躯天の赦すところ

楽しまざるをこれ如何せん」

「四十年前少壮の時

功名いささかまた自らひそかに期す

老来識らず干戈の事

伊达政宗歌集

除了是出色的武将与政治家以外,出身名门的伊达政宗还是位相当不错文人,他所写的和歌有许多流传了下来。下面,我就把其中的一部分登出来。由于这些和歌的翻译相当困难,因此我只能把其中的几首著名的译本登出来,其他的都是日语原文,有兴趣的朋友可以参详一下啊。

天正十八年正月七日佳例的连歌会上的作品

「歌びとの秋のさなかの月になお心のうちや澄みわたるらん」

元和四年三月二十一日在江户的家中

「諸人は薄花染のきぬぎぬと恨み顔にや帰るかりがね」

「花さけば陰さりながら諸人の心にかわる春のかりがね」

同年五男宗纲的葬礼进行时

「いとけなき人は見はてぬ夢かとようつつに残る老いの身ぞ憂き」

み「見るからになお哀れ添う筆の跡いまよりのちの形見ならまし」

だ「誰とてもついには行かん道なれど先立つ人の身ぞ哀れなる」

ふ「吹きはらう嵐にもろき荻が花誰しもいまや惜しまざらめや」

文禄三年二月二十九日在吉野进行的赏花歌会上的作品

花願「おなじくはあかぬ心にまかせつつ散らさで花を見るよしもがな」

只把る春風桃李の巵」

上面这两首我想专门说一下。这是政宗在元和七年(1621年)54岁时,在一次喝醉了酒以后所写的。这两首和歌充分反应了当时政宗年老时的心境,也许这就是人们所说的“德川家康死后,政宗已经没有了夺取天下的想法”。其中前一首和歌的中文译本相当出名,我也非常喜欢,现在登在下面,供大家欣赏:

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